2013年 12月 7日午前中 (記載が遅くなりました)
発掘は 群馬県の「毛野考古学研究所が行っております。
富山市の教育委員会埋蔵文化財センターの管轄です。
平安時代には集落があり、このころから新庄地区に人々が暮らしていたことがわかりました。
室町時代には館があり、当時有力者が居住していたと推測されます。この館は、応仁の乱《1467年》頃に城に作り変えられました。城はそののちも改変を繰り返し、その後埋められてさらに大きな城が造成されました。これが戦国史記録にあらわれる「新庄城」と考えられます。
新庄城は、1520年(永正17)年から 1583(天正11)年まで戦国史の記録の中でたびたび現われ、その後廃城となる。江戸時代には、跡地に加賀藩によって御陣屋が作られました。
新庄小が建つ場所は、古くから「お屋敷山」とよばれた小高い丘でしたが校舎の建築や拡張の際に平らに削り取られてしまったようです。そのため、新庄城の曲輪(くるわ)などの大部分は削られてなくなってしまい、わずかに堀などの痕跡だけが残ったと考えられる。
今回の調査では 記録に表れる新庄城の痕跡は堀の一部が残っていただけでした。
しかし築城以前の歴史が明らかになりました。
土中から掘り出された 多くのものが休憩小屋?に展示されていました。
写真は 60数枚撮り 整理が大変でした。