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2012年 10月 24日

wordで ハガキ 「引越し案内」

教室で習いました。
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by pc5takahashi | 2012-10-24 23:40 | 講座 | Comments(6)
2012年 10月 22日

ステッチしてみました。

今日は みなさんありがとうございました。
準備
 ① 図を イラストロジックや、持っていた クロスステッチの本から・・・
 ② A4用紙に設定 エクセルで22ポイントと24ポイントの 方眼用紙を 2種つくっておきました。(また使用するためにこれは保存しておくといいです。上書きだめです)
22ポイントでつくると 24ポイントでつくるより 当然マスがふえます。
適当な色を付けて行きました。(余談ですが それをコピーし word へ持っていきTextを仕上げた)  

クロスステッチする時のことですが
Kさんが言われたように (色を付けて) ×を直接ステッチする 方が とても早い方法ですね

つくってみました。以前 練習用に 私がいくつかさして 重なり具合が 何かおかしいと思っていました。が
早く刺せました。
ありがとうございました。
 クロスの数が多いほど きれいな仕上がりになります。。。>

 
教室で 作った小さい20*20ものは 補修用に使ってくださいね。
どんな時か=(違った色で刺してしまい 「編集」から戻る 操作も効かないときに 20*20で作成したのを使用し補修してくださるように。)

 スイカをスプーンで」
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目を ボタン●にし 泡は  で ひょうげんしました。
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by pc5takahashi | 2012-10-22 21:19 | JTrimで加工 | Comments(10)
2012年 10月 21日

オーストラリア② カウラ事件の事 ー 第二次世界大戦中

私は遺族ではありませんが
 この事件を書き記しておきたいと思います。

カウラでの 日本人捕虜の待遇は収容所係官と 休憩時間には キャッチボールをするなど  暖かい待遇を受けていたそうですが 何故脱走事件が起きたのか?  それは・・・
以下は説明はWikipediaと この地図はhttp://web3.incl.ne.jp/matsuura/nsw_cowra01.htmlのページからお借りします。
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これは地図を写す
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カウラの慰霊祭も 2014年には 70周年になるという
カウラ事件とはウイキペディアより引用させていただきました。
カウラ事件(カウラじけん)は、第二次世界大戦時の1944年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本兵捕虜脱走事件。
捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。[1]

収容所があった場所
位置:ニューサウスウェールズ州の州都シドニーから西250kmに位置する町、カウラの中心部から北東へ3.2kmの郊外地域
収容捕虜:枢軸国捕虜(イタリア人、日本軍に従事していた朝鮮人と日本人)・被拘束市民(オランダ領東インド政府により拘束されていたインドネシア人)約4,000名が収容されていた。1944年8月時点、オーストラリア国内の捕虜数は、2,223名の日本人捕虜(544名の海運業者を含む)、イタリア人捕虜(北アフリカ戦線より)14,720名、ドイツ人1,585名(海軍、海運業者)この内、1,104名の日本人がカウラ収容所にいた。[2]

各国の収容所の位置が書かれていました。
敷地 [編集]収容所の敷地は12角形(直径約600m)をとっており、90度角で4ブロックに分かれていた。
Aブロック(北西):イタリア人
Bブロック(北東):日本人(北部域にオーストラリア軍の敷地があった)
Cブロック(南東):イタリア人
Dブロック(南西):日本人将校、台湾人、朝鮮人

警備 [編集]1943年2月、ニュージーランドのフェザーストン捕虜収容所(日本人の捕虜収容所)で日本人捕虜が暴動を起こしたため、カウラ収容所も警備の強化が行われる。

この際に、年配の退役軍人や、前線配置には健康ではないと評された若者などで構成される、第22守備隊(22nd Garrison Battalion)を整備。周囲の監視、作業班の監督を任務とした。

この市民兵第22守備隊には、ヴィッカース機関銃とブレンガン(ともにイギリス・イギリス連邦軍により使用されていた)

捕虜たちは
 日常は 農作業をし
、手厚い扱いを受けていたと 書かれています。
作業 [編集]トマトやブドウの栽培、薪の為の伐採といった、農業を行っていた。

レクリエーション [編集]警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。日本人は文化的スポーツであった野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動が自由に許され、野球のバックネットを運動場に建てる写真が残されている[3]。

レクリエーション [編集]警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。日本人は文化的スポーツであった野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動が自由に許され、野球のバックネットを運動場に建てる写真が残されている[3]。

学校で学んだことは覚えていますが 内容 ジュネーブ条約は何のことか覚えておらず・・・
当時の日本軍・日本人社会の ”生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)” という考え方で 日本兵は脱走したのだ。

状態 [編集]収容所では、"傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)" を日本人にも適用(当時、日本政府はジュネーブ条約を批准していない)していたが、日本人捕虜はジュネーヴ条約の条文を理解しておらず[4]、当時の日本軍・日本人社会の ”生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)” という考え方と、欧米(同じ枢軸国であったイタリアを含む)やオーストラリアの”国を代表して全力で戦った、名誉ある捕虜” という認識の相違により、オーストラリア人と日本人捕虜の間ではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣訓などからなる日本軍人に固有の意識や、外交・国際関係の知識の不足による誤解が背景にある)。

例えば、アフリカからのイタリア人捕虜が頻繁に家族に手紙を書いていたのに対し、日本海軍規範に述べられているように、日本軍・日本人社会は捕虜を不名誉としていたため、捕虜になった日本兵の内7、8割は偽名を用いて登録していた[3](本名が本国日本に照会されて、自分の家族などが非国民の扱いを受け、村八分的差別にあう可能性を避けるため。実際、捕虜第一号となった酒巻和男少尉の家は、非国民扱いされていた)。したがって、本国にいる自分の家族に手紙を書くことは行わなかった。
 (手厚いほどの待遇を受けながら) 捕虜の人数がオーバーしたために 他の収容所に 移送されると知った日本兵は 脱走を決行したのです。
契機 [編集]1944年8月第1週、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーしたために、将校・下士官を除く兵士を、400km西に位置するヘー(Hay, ニューサウスウェールズ州)の捕虜収容所に移すことを計画。8月4日、ジュネーヴ条約の規定に基づいて移送の前日に、日本人捕虜に通達された。blockquote>
ここで脱走事件は起きたのです。

続きは
カウラでの「慰霊祭の様子」 私の写真で UPしたいと思います。続くー
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by pc5takahashi | 2012-10-21 11:05 | Comments(2)
2012年 10月 15日

オーストラリアへ ①.カウラの戦没者慰霊祭に参加するために

成田から -
カンタス航空にて20時30分シドニーに向けー 
9時間半のフライトです。現地時間7時5分シドニー着(日本は6時5分)。日本との時差は1時間

戦没者慰霊祭(23日)の前日 日本庭園の「桜祭り」に参加しました。
ここには桜が沢山植えてありました。
オーストラリアの人や 現地にいる日本の人に感謝ですね!
すごく大きな庭園が それはそれは手入れが行き届いていました。
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ここがカウラ(地名)の日本センターです。16時過ぎに入りました。センターの中を 進むとすぐに そこには立派な日本庭園が十分に管理されていて 驚きました。!

センターの中では 食事もできますし 小規模ですがお土産店もありました。(夜はここで食事をしました)この後ろ部分に 立派な 日本庭園があり 桜が咲いていました。
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センターの中に飾ってありました。私たちは時間の関係もあり ここでのイベントを最後まで見聞きすることはありませんでした。
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以下は近くにあった 収容所跡です
収容所跡の看板
       
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平和指定地区
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今は建物は壊されてありませんでした。 
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日本庭園の桜の木の下で
 顔が認識されないように 人物のみに 「ノイズ付加」の 加工をしてあります。
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メモ
追加:ブルーマウンテンー世界アさんブルーマウンテンの奇岩の事⁻シーニックワールド
ギネスに乗っている世界一の急こう配のトロッコ列車に乗車
シドニー市内から約一時間の世界遺産
ブルーマウンテンのスリーシスターズ標高1000m級の山々が連なる。ダイナミックな青い山並みと奇岩が織りなす絶景を楽しめる。

シドニーサーキュラーキーエリア
シドニーークイーンビクトリアビルデング
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by pc5takahashi | 2012-10-15 14:59 | Comments(0)
2012年 10月 10日

wordで チラシ作り

今日はY先生から音楽会用のちらしを教わりました。
ありがとうございました。
イラストは違ったものを入れました。
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by pc5takahashi | 2012-10-10 18:19 | Comments(2)
2012年 10月 10日

赤トンボを(家の庭で) 

(我が家の空き地で) 赤とんぼを久しぶりにみました。
トマトの手にしてある プラの棒に止まり、
でも離れても またそこに戻ってきました。
少しずつ近づきながら シャッターを切り続けました。うち2枚を連結。
写真を撮る機会をたっぷり・・・ 私に大サービスしてくれました。ありがとう!!
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庭でイチゴの花が咲いていました。今年買った苗なのですが 夏にも楽しみましたが またピンクの花が咲き このイチゴ大きいんですよ。最近またデコボコのイチゴがなっています。
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ナスがすっかり弱っていたので でも ダメもとと思い 枝を切り詰めておきました。 
最近また花を咲かせてくれています。
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by pc5takahashi | 2012-10-10 10:07 | 日記 | Comments(0)
2012年 10月 06日

孫は 言葉が多くなり・・・

1才7か月の外孫と 娘夫婦が 1泊していきました。言葉も増え、うんちも知らせるようになっていました。 孫は ショッピングセンターの子供服売り場で 洋服を買ってもらっていました>
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by pc5takahashi | 2012-10-06 21:31 | ソース  マーキー | Comments(2)
2012年 10月 03日

パッションフルーツの実を 

食べてみました。
初めて食べたと思いますが 上品な あっさりした甘みがありました。

今年7月の上旬 花屋さんで 花を買いましたが
時計草の仲間??? しばらくしても 花もささず来年を待とうと思っていたら
005.gif ラッキー 7月20日私の誕生日にはなが咲きました。思わずシャッター切りカメラに残しました。
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7月24日の様子ですが 若いトマトの肌みたいに思いました。
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1番目のが 少し黄色くなっています。9月5日 つるつるですが 梨の肌のように思いました。
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9月14日 16時50分に 赤くなっているのを見つけました。
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 夜7時には 自然落下していました。
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それからキウイフルーツのように 熟成させる(表面がシワシワになるまで常温放置) (酸味が取れると上品な甘さ)・・・ (アイスクリームにトッピングさせたり、其のままスプーンで掬って食べる)とnetで調べました。

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今年は4個なりましたが
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1個目で調べたものです。
卵は61gですが フルーツのほうは 大きいのですが65gしかなく (もっとあると思いましたが)
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きのうやっと
上部を切り
  シワシワになるまで放置したのを・・・、 酸味は全くなく・・・、上品な甘さでした。

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by pc5takahashi | 2012-10-03 12:36 | 日記 | Comments(6)